きりとりせん

Let's write what we catched with kiritorisen.

春、卒業、いのち

 

家のちかくで、3月31日


春、卒業式が3つあった。
そんな年は初めてだし
これからももうありません。

そんな体験のなか思った卒業について。

 
感慨深い、おめでたい、
あるいは
嬉しい、悲しい、淋しい、
どれもそうと言えば
そうだけれど

そんなことを思うより
はるか前に

会場に入れば勝手に
涙が出たり
じーんとする、

式中、ただもくもくと
自分の席に着くために歩いている
名前も知らない男の子女の子の
ある種、野生がかった表情、
むくむくと立ちのぼる元気さ、に、
かわいいなあ、と心から見入る、

この感じはなんだろう?
と思っていた。

おめでとうございます、

感慨深いですね、

ちょっと違った。

 
卒業は小さな死だな、と思った。
終えるから。
本番にも似ている。
そしてお式というもの。
終えたということを厳粛に、ここに報告する、
それは校長先生に向かってだったり
保護者に向かってだったりしているけれど
ほんとうは
天に報告しているんだ。

いただいた3年なら3年の時間を
わたしはこんなふうに過ごしました、
こんなふうに不完全に、こんなふうに潔く、
過ごしました、と。

そして
卒業が死に似てるのではない、
死が、卒業なんだ。
だから、卒業のとき、あたしたちは
なにも考えなくたって
いのちとして、響き合わずにはいられないんだ。
その期間を生き抜いたいのちの
潔い、まっすぐな姿を目の当たりにして、、

 
学校の卒業、に始まる
小さな卒業を
幾度となく繰り返して
いのちは生き抜いていき
すべての卒業を終えたら
いのちそのものを卒業する。

 
死というものへの
捉えかたが、この春、少し変わりました。
生き抜くということを
前より思うようになった。

 
ちょっと前に、
母のお友達のかたが、入院している
母にお手紙をくださっていた。

そこには、生き抜きましょう!という言葉があった。
わたしははっとしました。


死とは本来、敗北でも、不幸でも、悲劇でも
ないのだろう。