ひねくれた人っている、、
ネガティブで
そこで前を向かないんだ、、とまわりをガッカリさせる人。
わたしも、そんなときが
あります。
愛されてる
愛されてない
で言うと
どうせ愛されてない
に
腰をおろしちゃって
ふんぞり返っていることが、、
人と人のことは
本当のこと
とか
その証し
なんかを求め始めたら
きりがなくて
たっぷりとそこに溢れる
愛されてる
も
たやすく
愛されてない
の陰に隠せてしまう。
で
きょう
ちょっとしたことでわたしも
とある
愛されてる
が
冷え冷えとし
もう
愛されてない
に座っちゃうもんね
とほぼほぼなってしまって
あっと思いました。
そうか、
このある意味不確かな
愛されてる
と
愛されてない
のあいだで
愛されてない
に立つ
て
ラクなことなんだ。
なぜ?
愛されてない
は
不幸なことだけれど
でももうこれ以上
悪くなる心配がないから。
ある意味安心なのです。
いじけて、どうせ
と言っていればいい。。
愛されてる
は?
幸せなことであると同時に
タフなことでもある。
だってそれが
これからずっと失われないとは
言えない。
わたしは再起不能なほどに
ガッカリするかもしれない、、
だから
愛されてる
に
座り続けるのは
走り続けるような
精神の働きを
必要とする。
なにかと
ひねくれた物言いをする人の気持ちが
ちょっとわかった気がしました。
愛され続ける、
は
その人しだい。